ストーリー オブ ライフ 画家AKI誕生秘話(2007年作成)

軽度の知的障害を持ちながら"絵"という才能を片手に色々な人に夢とエネルギーを与える画家AKI。"ストーリー オブ ライフ"ではそんなAKIが画家として一歩を踏み出すまでの半生をご紹介します。画家AKIのことを知っている人も、知らない人も是非お気軽にご覧ください。そして画家AKIのことを今以上に深く知って頂けると本当に嬉しいです。

             
1、 AKIが生まれて

木下明幸(きのしたあきゆき)
通称AKIで親しまれる現在20歳の彼がこの世に生を受けたのは1987年春のこと。


初産だったため予定日をかなりオーバーしたが無事出産。

明るく幸せになって欲しいという願いを込めて父親により明幸(あきゆき)と名づけられた。

生まれた時の体重は4000グラム以上あり普通の元気な男の子。その時は家族みながそう思っていた…


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AKIが他の子と比べ少し変っていることに気づきはじめたのは生後しばらくたってからだった。

一週間に一度きまって大熱を出して病院にかけこんだり、ウロウロと行動に落ち着きがなく一人わけもなくオムツを振り回してみたり…。

そして周りの子と決定的に違うのはとにかく口を開かない、"喋らない"ということ。

2歳になっても3歳になってもAKIは喋らない。何も言わない。その様子に不安を感じた両親は医師に相談し、そこでAKIには知的障害があることを知らされた。

その時のことを父親である木下昭は笑いながらこう語る。

「その時ですか?いや、別に。それが何?っていう感じでしたよ。まわりからよく(知的障害のことを医師から)知らされた時どう思いましたか?と聞かれるんですけど本当に"別に。それがどうしたの?"という感じでした。

知的障害と言われてもAKIがこれからどうなるのか想像がつかなくて、ただ???という感じでしたね。僕と違って母親は母親なりにショックを感じていたと思うんですけど、でも"生まれた以上しょうがないし、5体満足で生まれただけでもいいと思ったんです。」



そんな両親のもとAKIは特別変わった生活をするわけでもなくまわりの子たち同様、普通の幼年期を過ごす。

しかし、そんなAKIを取り囲むまわりの人々の反応は様々で、親戚縁者、身近な人間ほど意外なまでにAKIのことを理解してくれなかった。

中にはほっとけば治るものだと勘違いしている人も多く、さらには露骨に顔をしかめAKIの存在を木下家の恥だと言い放つものさえいた。

そんな見えない重圧の中、両親、とりわけ母親は心を痛めた。そして親である自分たちが死んでも子供が生きられるような環境やお金だけは残してあげたいと強く思い、AKIの理解者である両親そして祖母はそれぞれの信頼と絆を深めていった。








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2.小学校入学 〜 絵との出会い


時は流れAKIは小学校へと入学する季節を迎えた。

親は子供の障害を認めたくないもの。父親である昭は学校などは出来るかぎり普通の健常な子達と一緒に行かせてあげたいと願った。

障害者といえども人間はいつかは自立しないとならない。社会に出てからのことを思うと多少無理をしてでもAKIを健常な子達と一緒に過ごさせたかった。しかし母親とは意見が違い、AKIのためには学校内に併設されていた障害者学級にいれてあげたほうがいいと、二人の意見は対立した。

そんな状況の中、AKIは小学校4年生まで学校の先生や周りの人たちの協力のもと普通の子と同じクラスで授業を受ける生活を送った。

AKIは持ち前のキャラクターかクラスメートには好かれ、いじめられるというようなこともなかったが、成長するにつれどうしても周りの子供たちに迷惑をかけるようなことも残念ながら増えてゆく。

結果、両親は相談の上、AKIを障害者学級に編入させることを決め、同時に障害者手帳(愛の手帳4度獲得)を取得した。




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障害者手帳の取得は自分の子供が障害者であるとはっきりと公に認めることを意味することから、ほとんどの親がその判断にとまどう。そのことについて父、昭はこう語る。

「親にとって一番辛いのは(子供の)障害者手帳をとるかとらないかの判断。自分の子供を障害者と認めるかどうか。覚悟を決めるかどうか。障害者手帳をとると一生その手帳がついてくる。だから本人自身がそのことを理解していないと社会に出てから辛いと思う。そして本人自身が自分が障害者であるということへの覚悟が必要だと思う。

よく僕とAKIは障害をものともせず堂々と生きていて凄い。びっくりすると言われますが覚悟さえあれば何でもないことだと思っています。多くの親はどうしても子供の目線まで下りられない。だからいつまでたっても上と下の関係になってしまい、子供も自立できない。一方通行になってしまうんです。

でもAKIみたいなこういう子たちの生きる道もあるんだから、一度そこまで同じ目線に下りて考えてみる。そうすると、その時に子供たちに突拍子もない何らかの才能が見えると思う。

それには親自身も覚悟が必要。一緒に生きてゆくという覚悟が…。」



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障害者学級に移ってからというものAKIはひたすら絵を描くようになった。

回りの雑音がないぶん自分の世界に没頭できたのが理由なのかも知れない。障害者学級に移ってからのAKIの絵のレベルは如実にアップし、それまでの落書きレベルのものからハッキリと絵といえるものに変化していった。そして同時に版画による作品づくりにも着手してゆく。


※マンモスの版画。これが生まれて初めての版画。驚くことに誰にも習っていない。後にこれが東京都障害者デーの表紙をかざることになった。


そんな日々を送るうちに様々な人に絵が認められだし、AKIの才能が見出されてゆく。

そしてじょじょにではあるが作品をコンクールに出すと必ず何らかの賞をもらえるようになっていくまでに成長してゆくAKI。

その頃のAKIと絵との出会いのことを父、昭はこう語る。

「幼少の頃からAKIは(障害があるおかげで)自分のことを理解してもらいたいのに、まわりには理解してもらえませんでした。だから大声を出したり、自分の手で自分の頭をガンガン叩いたりする自傷行為をしょっちゅうしていました。

でも、そんな時にAKIに紙と鉛筆を渡すと決まって落ち着いて絵を描いていたんです。こんな光景が幼稚園の頃から気づけば当たり前だったんです。今思えばこれがAKIと絵との出会いだったのかも知れないですね。書いているものはどう見てもただの子供の落書きでしたけど(笑)。

遊びでも山小屋とかの自然が好きでよく一緒に遊びに行っていましたね。そこで工作をしたり陶器みたいなものを作ったり、そういうのが大好きで、遊びといえばそんなことばかりしていました。そんななかで出来上がった作品も良かったみたいでよく褒められていた。それが3歳4歳くらいのころですね。

AKIの絵は色使い、そして線使いに凄さがあると定評があるんですけど、その片鱗は小学生の時にすでに見せていて当時の小学校の美術の先生には"AKIの絵には度肝が抜かれる"とまで言われたのを覚えています。

とにかくAKIを見ていると"人の可能性はどこで開くかわからないな"と本当に思います。生まれた頃のことを考えると今みたいにAKIが絵で注目されてまがいなりにも生活ができるなんて信じられないこと。人の可能性は本当にわからない。だからAKIにもよく言うんです"あきらめちゃいけないよ"って。でも自分自身にはまったく芸術の才能はないのでAKIがこうなったのには本当に不思議なんですけど(笑)」



普通学級から障害者学級へと編入したことをきっかけに才能を開花させていった小学生時代のAKI。両親の愛情、そして覚悟を支えに一歩づつ一歩づつ自分の速度で進んでゆく――。



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3、AKIの中学時代 / ライフステージ開設


様々な人々の支えのもと、AKIの中学校生活は順調に進んだ。

没頭する創作活動にも熱を帯び、中1の時にタコとカニの絵。 中2の時にマンモス、中3の時にアリとサンマをモチーフに作品を描き世田谷区民公募展に応募。

そのほとんどの作品が何らかの賞を受賞するようになり、 それをきっかけに世田谷区に呼ばれることになる。

そしてその流れで中3の終わりに世田谷区にてライフステージを開設。

2003年度毎日新聞社賞受賞作品


開設にいたった経緯、理由を父、木下昭はこう語る。

「それまでは変な話、AKIはやっぱり障害を持っているから、ただお金だけを残してあげることだけに必死だったんですよね。 だけど中学生の夏休みのある日の出来ごとがそんな私の考えを変えたんです。」

話しによると、AKIは家から4駅くらいある場所の図書館に一人で歩いてゆくのが日課だったそうで、その時に必ず200円ほどの小銭を持たせていた。

ある日、そんなAKIの日々の行動に父は興味を持った。時間の感覚もよくわからないのに、毎日図書館に行ってはきちんと帰ってくるこの子は一体どうしているんだろう?

毎日どんな道を通り、毎日どんなことをしているのだろう?

父は一緒に図書館へといってみることにした。そしてAKIの様子をつぶさに観察してみた。

AKIは、まずお菓子屋さんに入りミネラルウオーターを買った。お菓子屋のおばあちゃんが、いつもご苦労さんねと手馴れた様子で水を渡す。AKIはそれを普通に受取りお金を渡す。それを見て父はハッとした。

お金の勘定が出来ている。いつのまにか一人で買いものが出来るようになっている。 AKIに毎日ここで買うの?と聞くと、”うん、毎日ここで買ってから図書館に行く。”と答える。それを見て父はおもわぬ発見をした気になった。

振り返ってみると、父やまわりの人間は勝手にAKIはそんなことは出来ないと思いこんでいた。でもAKIは気づくと勝手に自分で色々なことが出来るようになっていた。

図書館においてもAKIはきちんと本を返却し、また新たな本を誰に頼ることなく自分で探し、借りる。この頃の父は仕事ばかりで、そんなAKIのことを何も知らなかった。

それを見て父、昭はこう思った。

「いつのまにかAKIはAKIの人生を生きているんだな。自分が勝手に思っていたAKIの人生とはまったく違うんだな。」

そしてああ、俺は(父親として)このままじゃいけないなと思い妻に相談。 AKIにはAKIの武器があってそれを磨いてやればちゃんと生きていけるんじゃないだろうか?

そんなことを話し合うようになった。





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そんなことを経験し、思うところのあった父、昭は東京23区の福祉課へと足を運んでみた。相談することによって何かヒントがあったり、AKIのためになることが出来るんじゃないかと考えたからだ。

しかし現実は酷いもので行政のシステムの矛盾をまざまざと感じさせられた。 全部で200近くの施設などを見てまわったがどれも父の納得のいくようなものではなかった。

「結局障害を持っている子にはレールが決めつけられていて、どんなに障害が重かろうが軽かろうが行政にとっては関係なかったんですよね。障害者というひとくくりで、障害を持った子の個性なんてまったく鑑みられていなかった。

最近はだいぶよくなって来た気がしますが、何年か前はほんとにひどかった。戦後から状態が何も変っていなかったんですよ。信じられますか?」

そんな現実を前に父、昭は”これじゃあ、こういう子たちの人生は無いも同然だな”と強く感じた。そして自分達は自分達で勝手にやるしかないなと強く思った。 その具体的な方法として、障害者それぞれが持つ武器を磨いてあげ、そしてそれを第3者に、それも一般の普通の人に見て、評価してもらう。このことこそが最も大事なこと。これが今あるライフステージ開設の最初の動機となる。

「色々な施設の方法を拝見させてもらったんですけど、やっぱりどうしても内輪のりでしかないなというか、同情心でのみ作品が評価されているものばかりだったんです。でもそれでは、この子たちはいつまでもたっても独立できないだろうなと思いました。だからライフステージでは一般の人々に見てもらえる、手にとってもらえるもの、場所をまず作って、そこから活動していこうと思ったんです。」

そういうやり方だからか、現在、AKIのまわりにはこの業界には珍しく障害関係の人がまったくいない。行政の人も、施設の人も。 いるのは全て表現という同じ土俵で生きるミュージシャンや一般の人々。父が頭に思い描いた理想の形にできたんじゃないかと思っている。障害を持った子も持っていない子も関係なく、独立して生きてゆく厳しさは一緒。そういうことを父はライフステージを通してしっかりとAKIに伝えたかった。


2007年4月個展風景



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こういう一種、異端とも捉えられる考えでやってきたので、理解されなかったりトラブルになったことも少なからずあった。

「だけどそれは仕方のないことだと思うんです。色々な言い分、視点もあると思うんですけどそれでも、障害者としてではなく一人の人間として生きていくためには恐れずに一般の世間に跳びこんでゆくことが大切なことだと思うんです。だから中学3年の時にもらった世田谷区展の賞も、障害者ではなく、ただのAKIとして応募しそして賞をもらったんですけど、これは本当にとても嬉しいことでしたね。」






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そしてこの中学生の頃のAKIに別の側面で、とても重要な影響をあたえた人がいる。それは中学校の担任教師だった。

「中学校の先生も厳しい人で大変お世話になったのを覚えています。障害者でも悪いことをしたら殴るというポリシーを持った先生だったんですよね。挨拶をしなかったらぶつ。間違ったことをしたらぶつ。その当時の環境で凄い勇気のある先生だったと思います。僕はその女性の先生に凄く感謝していて、今のAKIがあるのも一種、その先生のおかげだと思っているところがあります。

この先生の指導によってAKIは随分成長した気がしますね。今、AKIが挨拶をできるのも、他人とちゃんと一緒にいられることもこの先生の存在のたまものです。」

悪いことをしたら悪いことをした。障害者だからと許すことなく指導する養護学校の先生。障害者だっていつかは社会に出てゆかなければならないときが来る。その時、じゃあ、僕は障害者だからって何してもいいわけじゃない。障害者だからって人を傷つけていいわけじゃない。そんなもっとも大切に思えることを、この時の教師はAKIに教えてくれた。

そんなありがたい教師であったが、それでも父、昭と衝突することも多かったという。

「そうはいっても僕自身もこの先生とがすごくケンカしたんです。AKIのことに関して意見があわなくて。
僕は生きていくのは自分・社会との戦いだと思うから、AKIの絵の才能をとにかく厳しく伸ばしたかった。でも先生はそんなことをしたらAKIに負担がかかり過ぎると反対だった。そんな意見をお互いによく戦わしていましたね。」

そんなこんなで、毎日波乱万丈な日々だったが、AKI自身の中学での学生生活は凄く楽しそうだった。そしてこの教師に出会うことにより、父自身も障害を持った子を上から見るわけでもなく下から見るわけでもなく、同じ視線でみることが最も大切なことだと学ぶ。

「この子たちと同じ視線、同じペースでものごとを見てみると様々な発見があるんです。本当ですよ。

こうして、AKIは徐々に画家としての一歩を歩み初めていった・・・

(文/構成・MIZK http://www.freestyle-life.net/

                
                

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