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1、 AKIが生まれて |
木下明幸(きのしたあきゆき)
通称AKIで親しまれる現在20歳の彼がこの世に生を受けたのは1987年春のこと。
初産だったため予定日をかなりオーバーしたが無事出産。
明るく幸せになって欲しいという願いを込めて父親により明幸(あきゆき)と名づけられた。
生まれた時の体重は4000グラム以上あり普通の元気な男の子。その時は家族みながそう思っていた…
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AKIが他の子と比べ少し変っていることに気づきはじめたのは生後しばらくたってからだった。
一週間に一度きまって大熱を出して病院にかけこんだり、ウロウロと行動に落ち着きがなく一人わけもなくオムツを振り回してみたり…。
そして周りの子と決定的に違うのはとにかく口を開かない、"喋らない"ということ。
2歳になっても3歳になってもAKIは喋らない。何も言わない。その様子に不安を感じた両親は医師に相談し、そこでAKIには知的障害があることを知らされた。
その時のことを父親である木下昭は笑いながらこう語る。
「その時ですか?いや、別に。それが何?っていう感じでしたよ。まわりからよく(知的障害のことを医師から)知らされた時どう思いましたか?と聞かれるんですけど本当に"別に。それがどうしたの?"という感じでした。
知的障害と言われてもAKIがこれからどうなるのか想像がつかなくて、ただ???という感じでしたね。僕と違って母親は母親なりにショックを感じていたと思うんですけど、でも"生まれた以上しょうがないし、5体満足で生まれただけでもいいと思ったんです。」
そんな両親のもとAKIは特別変わった生活をするわけでもなくまわりの子たち同様、普通の幼年期を過ごす。
しかし、そんなAKIを取り囲むまわりの人々の反応は様々で、親戚縁者、身近な人間ほど意外なまでにAKIのことを理解してくれなかった。
中にはほっとけば治るものだと勘違いしている人も多く、さらには露骨に顔をしかめAKIの存在を木下家の恥だと言い放つものさえいた。
そんな見えない重圧の中、両親、とりわけ母親は心を痛めた。そして親である自分たちが死んでも子供が生きられるような環境やお金だけは残してあげたいと強く思い、AKIの理解者である両親そして祖母はそれぞれの信頼と絆を深めていった。
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2.小学校入学 〜 絵との出会い
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時は流れAKIは小学校へと入学する季節を迎えた。
親は子供の障害を認めたくないもの。父親である昭は学校などは出来るかぎり普通の健常な子達と一緒に行かせてあげたいと願った。
障害者といえども人間はいつかは自立しないとならない。社会に出てからのことを思うと多少無理をしてでもAKIを健常な子達と一緒に過ごさせたかった。しかし母親とは意見が違い、AKIのためには学校内に併設されていた障害者学級にいれてあげたほうがいいと、二人の意見は対立した。
そんな状況の中、AKIは小学校4年生まで学校の先生や周りの人たちの協力のもと普通の子と同じクラスで授業を受ける生活を送った。
AKIは持ち前のキャラクターかクラスメートには好かれ、いじめられるというようなこともなかったが、成長するにつれどうしても周りの子供たちに迷惑をかけるようなことも残念ながら増えてゆく。
結果、両親は相談の上、AKIを障害者学級に編入させることを決め、同時に障害者手帳(愛の手帳4度獲得)を取得した。
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障害者手帳の取得は自分の子供が障害者であるとはっきりと公に認めることを意味することから、ほとんどの親がその判断にとまどう。そのことについて父、昭はこう語る。
「親にとって一番辛いのは(子供の)障害者手帳をとるかとらないかの判断。自分の子供を障害者と認めるかどうか。覚悟を決めるかどうか。障害者手帳をとると一生その手帳がついてくる。だから本人自身がそのことを理解していないと社会に出てから辛いと思う。そして本人自身が自分が障害者であるということへの覚悟が必要だと思う。
よく僕とAKIは障害をものともせず堂々と生きていて凄い。びっくりすると言われますが覚悟さえあれば何でもないことだと思っています。多くの親はどうしても子供の目線まで下りられない。だからいつまでたっても上と下の関係になってしまい、子供も自立できない。一方通行になってしまうんです。
でもAKIみたいなこういう子たちの生きる道もあるんだから、一度そこまで同じ目線に下りて考えてみる。そうすると、その時に子供たちに突拍子もない何らかの才能が見えると思う。
それには親自身も覚悟が必要。一緒に生きてゆくという覚悟が…。」
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障害者学級に移ってからというものAKIはひたすら絵を描くようになった。
回りの雑音がないぶん自分の世界に没頭できたのが理由なのかも知れない。障害者学級に移ってからのAKIの絵のレベルは如実にアップし、それまでの落書きレベルのものからハッキリと絵といえるものに変化していった。そして同時に版画による作品づくりにも着手してゆく。
※マンモスの版画。これが生まれて初めての版画。驚くことに誰にも習っていない。後にこれが東京都障害者デーの表紙をかざることになった。
そんな日々を送るうちに様々な人に絵が認められだし、AKIの才能が見出されてゆく。
そしてじょじょにではあるが作品をコンクールに出すと必ず何らかの賞をもらえるようになっていくまでに成長してゆくAKI。
その頃のAKIと絵との出会いのことを父、昭はこう語る。
「幼少の頃からAKIは(障害があるおかげで)自分のことを理解してもらいたいのに、まわりには理解してもらえませんでした。だから大声を出したり、自分の手で自分の頭をガンガン叩いたりする自傷行為をしょっちゅうしていました。
でも、そんな時にAKIに紙と鉛筆を渡すと決まって落ち着いて絵を描いていたんです。こんな光景が幼稚園の頃から気づけば当たり前だったんです。今思えばこれがAKIと絵との出会いだったのかも知れないですね。書いているものはどう見てもただの子供の落書きでしたけど(笑)。
遊びでも山小屋とかの自然が好きでよく一緒に遊びに行っていましたね。そこで工作をしたり陶器みたいなものを作ったり、そういうのが大好きで、遊びといえばそんなことばかりしていました。そんななかで出来上がった作品も良かったみたいでよく褒められていた。それが3歳4歳くらいのころですね。
AKIの絵は色使い、そして線使いに凄さがあると定評があるんですけど、その片鱗は小学生の時にすでに見せていて当時の小学校の美術の先生には"AKIの絵には度肝が抜かれる"とまで言われたのを覚えています。
とにかくAKIを見ていると"人の可能性はどこで開くかわからないな"と本当に思います。生まれた頃のことを考えると今みたいにAKIが絵で注目されてまがいなりにも生活ができるなんて信じられないこと。人の可能性は本当にわからない。だからAKIにもよく言うんです"あきらめちゃいけないよ"って。でも自分自身にはまったく芸術の才能はないのでAKIがこうなったのには本当に不思議なんですけど(笑)」
普通学級から障害者学級へと編入したことをきっかけに才能を開花させていった小学生時代のAKI。両親の愛情、そして覚悟を支えに一歩づつ一歩づつ自分の速度で進んでゆく――。

つづく
(文/構成・MIZK http://www.freestyle-life.net/
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